2019年2月25日
武豊騎手、その志の高さ
2018年の競馬を振り返ると、アーモンドアイという歴史的な名牝が誕生したこと、3歳世代が驚異的な活躍をしたこと、外国人騎手の活躍がすさまじかったことなどが印象的だったが、あるスポーツ新聞社の「十大ニュース」では1位に「武豊騎手が史上初のJRA4000勝達成」を挙げていた。18年だけでなく、平成時代の競馬界を振り返っても、武豊騎手の功績は極めて大きなものだ。
武豊騎手の偉業を振り返る際、オールドファンにとっては父・邦彦さんの存在が欠かせない。関東の競馬ファンが「ターフの魔術師」を強く意識したのが1972年アチーブスターでの桜花賞制覇だった。桜花賞までの成績がいずれも関西圏で15戦2勝。特別勝ちはなく、トライアルの阪神4歳牝馬特別でも4着だった同馬は、関東ファンにはまったく無名だったが、本番で武邦彦騎手に乗り替わるとシンモエダケ、トクザクラ、キョウエイグリーンら空前のハイレベルと言われていた桜花賞で、直線で馬群を縫うように抜け出して2着ハジメローズに3馬身差をつける完勝。まさに魔術師らしいレースぶりで全国にその名を轟かせた。その年の牡馬クラシックではロングエースに騎乗してダービー初制覇。翌73年は負傷した嶋田功騎手からバトンを受けたタケホープでハイセイコーを鼻差斥けて菊花賞制覇。74年はキタノカチドキで2冠。76年はテン乗りのトウショウボーイで有馬記念制覇と、押しも押されもせぬ日本を代表する名騎手に君臨した。
邦彦さんの三男として武豊騎手がデビューしたのは父の騎手引退の2年後、87年だった。そのデビュー前年の夏、騎手学校時代の実習として札幌競馬場で調教に騎乗していた時から、武豊騎手の周囲にはマスコミが群がっていた。武邦彦さんの息子、というネームバリューは大きなものだった。武豊騎手は初めての競馬場での騎乗にも興奮することなく、まるでベテラン騎手のようにひょうひょうと調教を行っていたが、まだ17歳の少年は「武邦彦の息子と呼ばれるのではなく、武豊の父が邦彦だと思われるような活躍をしたい」と記者にとっては“おいしい”言葉で語っていたのが印象的だった。その冷静さ、クレバーさ、そして秘めた熱さが武豊騎手の最大の武器であることは、いまも変わっていないように思える。
当時から記者の間で話題になっていたのが競馬に関する知識の豊富さ。栗東育ちなので関西馬について詳しいのは当然だったかもしれないが、関東の条件クラスの馬でさえデビューからの詳細な成績を記憶していた。その様子から競馬記者の間でつけられたあだ名が「歩く競馬四季報」。ファンからはいまでも「天才」と呼ばれることが多いが、どのような馬の騎乗依頼を受けてもいいように完璧な準備をしている姿は、努力の塊に見えたものだ。デビュー年の69勝という当時の日本新記録、デビュー2年目にスーパークリークでの菊花賞制覇という偉業は「武邦彦の息子」だからチャンスに恵まれたわけではなく、自らの努力でつかみ取ったものだったように思える。
そんな努力を表に見せない姿は、現在でも揺るぎない。公称170センチの身長は現役騎手の中でも長身の部類。172センチだった父・邦彦さんは現役時代に減量で大変な苦労をしていたが、豊騎手の減量もさぞ壮絶なものだろう。だが若手の頃は50キロでも騎乗していたし、いまでも51キロで騎乗することがある。武豊騎手は「52キロなら減量しないで大丈夫だし、少し頑張れば50キロも乗れますよ」と語っているが、普段のとてつもない節制があるからこそできることなのだろう。
そして「JRA通算4000勝」という記録も武豊騎手の「表面」の部分なのかもしれない。通算勝利数は2年以上前にすでに4000勝を突破していた。昨年9月のJRA4000勝達成時点で海外116勝(うちJRA所属馬13勝)、地方競馬194勝(うちJRA所属馬165勝)を挙げていたためだ。この海外と地方での勝ち星にこそ、武豊騎手の真の凄さが表れている。日本に居れば毎週勝ち星を量産できる全盛期に、騎乗馬確保のアテもないアメリカ、フランスに長期遠征して武者修行してきたことが、日本競馬全体のレベルアップにつながった。ルメール騎手やミルコ・デムーロ騎手の日本での騎手免許取得も、ペリエ騎手らと親交が深かった武豊騎手という存在があったからこそ実現したことにも思える。経営が厳しい地方競馬にとって、交流競走とその当日の1日免許で武豊騎手が参戦することは売り上げ増に直結する。武豊騎手もそのことをしっかりと自覚しているから、積極的に全国の地方競馬へ遠征を行い、地元からの騎乗依頼もすべて受けてきた。1着賞金10万円というレースでも断ることなく騎乗してきたのだ。中には海外遠征からの帰りで、レース時間に間に合わせるためにヘリコプターを利用して地方競馬場まで駆け付けたことさえあった。いまの競馬の隆盛は、間違いなく武豊騎手のそうした志の高さの成せる業であると言えるだろう。