2018年2月26日
池上昌弘調教師の思い出
毎年2月は競馬界にとって別れの季節となる。著名馬たちが繁殖シーズンに間に合うように引退することもあるが、70歳で定年を迎える調教師が引退する季節でもある。今年は10人の調教師が引退する。美浦は池上昌弘、尾形充弘、小島太、二本柳俊一、和田正道の各師。栗東は岩元市三、加藤敬二、佐藤正雄、福島信晴、目野哲也の各師。輝かしい成績を残した名伯楽たちが多い。
その中で、個人的に特に思い入れが深いのが池上昌弘師だ。調教師としての実績は、1月末時点で通算452勝(平地449勝、障害3勝)、重賞はJRAでは未勝利、ダートグレード競走はJpn2兵庫チャンピオンシップ(ナンヨーリバー)の1勝だけと他の9人よりは目立たないかもしれないが、騎手時代は多くの名馬に騎乗し、私が競馬に興味を持った小中学生の頃に最初にファンになった騎手だった。
池上さんの騎手デビューは1967年。当初は古賀嘉蔵厩舎の所属だったが、翌68年に松山吉三郎厩舎へ移籍。記念すべき騎手1勝目はメジロサンマンの新潟・平場オープンだった。池上騎手は同馬とのコンビでその年に5戦2勝、2~4着各1回(いずれも平場オープン)と好成績を残して、騎手としての自信を得た。メジロサンマンは種牡馬入り後にメジロイーグル(メジロパーマーの父)、メジロチェイサー(メジロライアンの母)らを輩出して、メジロ王国の土台を築く種牡馬となった。池上騎手と名馬との出会いは、この時からすでに始まっていた。
69年は、ヒダプレジデントとデビューからコンビを組み、新潟3歳S勝利、朝日杯3歳S4着、東京4歳S2着、スプリングS5着など、アローエクスプレス、タニノムーティエのAT対決で沸いた同年3歳路線の脇役を務めた。さらに転機となるのが70年。騎手生活を引退した歴史的名手・保田隆芳さんが厩舎開業する際に主戦として同厩舎に移籍したことだった。松山師は保田師と同じ尾形藤吉厩舎で騎手、助手をしていた関係で、保田厩舎立ち上げに協力。保田厩舎は尾形厩舎から10馬房とともに管理馬が譲られたが、そのうちの1頭がすでにオープン馬のメジロアサマだった。そのため池上騎手は同年6月からメジロアサマの鞍上を任された。
4歳時の安田記念で重賞初制覇を飾った直後からメジロアサマに騎乗した池上騎手は、その初戦の札幌・アカシヤSをレコード勝ちすると、札幌記念2着、函館記念で池上騎手自身の重賞初制覇。秋シーズンもオールカマー3着、目黒記念2着と順調な仕上がりで天皇賞(秋)を迎えた。当時の天皇賞(秋)は3200m。メジロアサマの父パーソロンはスプリンター・マイラー種牡馬と思われていたし、メジロアサマの芦毛も「芦毛は長距離に向かない。天皇賞で芦毛馬は勝ったことがない」という根拠の薄い定説があった。そのためメジロアサマは5番人気の低評価だったが、中団から直線で抜け出し、内から追いすがるフイニイ、外から追い込むアカネテンリュウを下して見事に優勝した。メジロアサマのスタミナを考え、直線でギリギリまで追い出しを我慢した池上騎手の好騎乗が光るレースだった。
メジロアサマはその後も池上騎手とのコンビで多くの重賞を勝った。引退後、精虫不足で種牡馬として大きなピンチを迎えたが、供用3年目で初めて誕生したサラブレッドのメジロエスパーダが、池上騎手とのコンビで快足ぶりを見せ、休み休みながら6戦4勝を挙げ種牡馬入り。このメジロエスパーダの活躍でメジロ牧場があきらめずにメジロアサマとの交配を続けたことで、メジロティターンが誕生。メジロティターンからメジロマックイーンが、メジロマックイーンを母の父に持つドリームジャーニー、オルフェーヴル、ゴールドシップらが誕生する流れが出来上がった。メジロ牧場の歴代の名馬たちと池上騎手は深い関係にあった。
73年には尾形厩舎のエース・ハクホオショウとの出会いと悲劇があった。4歳夏から手綱を任され、札幌記念1着、函館記念2着、オールカマー1着と絶好調で天皇賞(秋)に断然の1番人気で臨んだが、スタート直後に骨折、競走中止。そのまま引退を余儀なくされた。池上騎手に責任があるアクシデントではなかったが、当時まだ26歳の若手騎手にとっては大きな挫折感、責任感を感じたレースとなってしまった。
そして池上騎手と名馬との関係で誰もが知っているのはトウショウボーイとのコンビだろう。ダービーでよもやの2着敗退、札幌記念は発馬でのつまずきで2着敗退し乗り替わりが決まったが、同馬の2400m以上は生涯5戦1勝、ダートだった札幌記念という条件を考えれば、これもまた池上騎手の責任とは言えないものだったように思える。
その他、アイアンハート、シタヤロープ、タイプアイバー、マーシャルシンボリ、シャトードシンボリなど多くの話題馬、良血馬に騎乗したことで、騎手通算138勝、重賞9勝の成績以上にファンに強烈な印象を残す騎手生活だった。52年間に渡る競馬界への貢献と数々の思い出に感謝したい。