2017年6月26日
オークス&ダービーを制した藤沢和雄調教師
競馬のもっとも華やかなシーズン、オークスと日本ダービーが終了した。この両クラシックレースを制したのが美浦・藤沢和雄調教師(65)だった。1988年に開業し30年目にして、オークス、ダービーともに初制覇。ニュースなどでは「歓喜の藤沢師」「諦めかけた夢を実現」などの文字が躍っていた。両レース初制覇は藤沢師にとって嬉しいことは間違いないだろうが、開業前から取材している記者から見ると「歓喜」「夢」などの文字にはやや違和感もある。
藤沢師が常日頃から口にしているのは「目標のレースなどない」。「お馬さん(藤沢師は愛馬のことをこう表現する)の成長と体調に合わせてレースに出走させて、強いお馬さんにして、生産界に戻していくのが調教師の役割。ダービーでもオークスでも、レースに合わせて仕上げていくということはないですよ」という考え方なのだ。
藤沢師は93年にJRA最多勝利調教師になると、その後も95~00年の6年連続、02~04年の3年連続など、これまで計12度もこのタイトルを獲得。最高勝率調教師9度、最多賞金獲得調教師8度、優秀技術調教師9度と、調教師界を席巻してきた。JRA通算勝利(1954年以降)は1351勝(5月末現在)で2位松山吉三郎元調教師に7勝差(1位は尾形藤吉元調教師の1670勝)まで迫って歴代3位。重賞制覇数はダービーが101勝目となり、こちらも尾形元調教師の189勝に続く歴代2位。だが3歳5大クラシックに関しては、尾形元調教師がダービー8勝など計26勝を挙げているのに対して、昨年までの藤沢師は04年桜花賞のダンスインザムード1勝だけだった。
「ダービー制覇はホースマンの夢」と言われることが多いが、藤沢師に関してはあくまでも「3歳世代のトップレース」という位置付けであり、もちろん勝ちたいレースではあっても、そこにピークを持っていく仕上げ方はしないし、無理をしてまで使うレースでもないという考え方。最強の古馬に成長させて、無事なうちに種牡馬、繁殖牝馬として生産界へ戻すサイクルを理想としているのだ。
バブルガムフェローは3歳春の骨折でダービーは出走しなかったが、秋は菊花賞に見向きもせずに天皇賞・秋を制覇。4歳秋の天皇賞2着、ジャパンC3着と、ピークと思われる時期に引退した。3歳4月デビューのタイキシャトルは3歳時にマイルチャンピオンシップ、スプリンターズS優勝。4歳時は海外遠征でジャックルマロワ賞を制覇し、年末のスプリンターズS3着で引退。シンボリクリスエスはダービー2着後、バブルガムフェローと同様に天皇賞・秋に3歳で優勝し、有馬記念も制覇。4歳時も有馬記念で9馬身差をつける連覇を果たして引退した。ダービーで2着に惜敗したゼンノロブロイもシンボリクリスエスも、古馬になってからピークの強さを見せたのは、ダービー時点で仕上げ過ぎていなかったことが理由の一つにも思える。
レイデオロは、2歳時に2000m戦で3連勝した後に、皐月賞まで休養した。ぶっつけでの皐月賞は5着に敗れたが、1度使われたダービーできっちりと雪辱した。もちろん藤沢師が皐月賞を「ひと叩き」で使ったのではないことは、常に高勝率を続けていることが示している。ただ目標は皐月賞でも、ダービーでもなく、サラブレッドが完成する4歳秋にピークの強さを発揮させることであり、その意味でレイデオロが今後どのような完成形になっていくのか、興味が尽きない。
ダービー制覇の「歓喜」という感情は、別の意味ではあったかもしれない。レイデオロの母ラドラーダ、祖母レディブロンドは藤沢師が手掛けた牝馬であり、特にディープインパクトの半姉にあたるレディブロンドは仕上げに苦労して5歳6月という遅いデビュー。そこから無傷の5連勝でオープン入りし、スプリンターズS4着と初敗戦後に、わずか1シーズン限りで引退させた。繁殖入りして5頭の産駒しか残せずに死亡したが、そのうちの1頭であるラドラーダからレイデオロが登場したことになる。またレイデオロの母の父はシンボリクリスエス。こちらも種牡馬としてはやや苦労している状況だったが、ブルードメアサイアーとしてダービー馬を送り出したことで、無事に生産界に戻した藤沢師の決断が報われたことになる。日本ダービー後の藤沢師の笑顔には、そんな思いが込められていたように見えた。